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Almama誕生物語

Almamaは、ネット上に不確かな医療・健康情報が溢れ、しばしばシニアとその家族が混乱する状態に陥ることに危機感を持っています。
重症化する認知症の後期に少しの暴力性が見られることは、多いものです。そのため、最終的な居場所が精神病院になることもあるのが、現実です。仕方がないと思われる日本国にのこの現実ですが、世界を見渡すとそれとは違う風景も見えてきます。

かって、「フィリピンでは認知症はない。日本人みたいに長生きしないよ」とフィリピンの人に言われたという研究者が、不思議に思って現地調査に入って見たのは、高齢者が認知症で大声で叫んだり、失禁している「重度の認知症者」でした。当時、現地の人は「年寄りはこんなもの、誰でもそうなる。病気じゃないよ」と言いながら、近所総出で面倒を見ていたと言います。「手間はかかるが、これが年寄り」と受け入れられている。社会制度も家族のあり方も国それぞれですから、何か正しいか問うつもりはありません。

ただ、最悪精神病院に預けた日本の家族は、切ない思いにとらわれている姿をよく目にします。これは、認知症の社会的疾患の一面と言えるのではないでしょうか。
私の両親は、介護施設で延命治療を拒否して私が見届けました。気がつくと15年経っていました。後悔はつきませんが、その中で一番思うのは、病気や高齢者の暮らしに対する自分の無知です。これがAlmama誕生の始まりになりました。

両親の認知症発症

超高齢社会の今、90歳を超える長寿も珍しくなくなりました。
46歳で倒産した父は、93歳になっても走れるほど元気でした。
それは倒産後に、再起を懸けて毎日3〜4時間ひたすら歩き続けて手に入れた健康でした。もともとは丈夫ではなく、体の小さい寒がりな人でした。
ずっと自営だったため、「健康な体だけが、次のチャンスを掴む力」と信じていました。しかし、再起の時は訪れず、時間が過ぎ認知症になると、その脚力は徘徊となって現れました。 

父は出かけたら、帰り道がわからなくなることがあることについて、全く覚えがない。ただ、幸い父には面白い癖があり、帰れなくなると路上に止まっている車に乗り込む。そんなにうまく人の車に乗り込めか?と思いますが。

乗る方に警戒心がないから意外とうまくいったのかもしれません。乗り込まれた方も相手が年寄り変だと思って、親切に警察に届けてくれましたが、本当にいつもそうだったのかは、わかりません。トラブルもあったかもしれないけど、父からはそんな話は聞きませんでした。それでも、その癖は確実に父の命を守りました。年間2万人以上の高齢者が行方不明になる時代、その日のうちに見つからないと、徘徊の人の生存率は大きく低下します。

マダラボケの時に、一度聞いたことがあります。
「帰れなくなっても、自由に出かけたい?」
「帰れなくなる?そんなことあったか?」
「このところ、増えているよ」
「う〜ん。付き人をつけてくれ」
「えっ、それは、、、」
「しかし、そんなことできるが人は少ないだろ」
もちろん、うちは無理。富豪じゃない⁈
「でも、父さんが自由が何より大事なら、どこかで死んで見つかっても私は我慢するよ。楽しいならそれでいい。畳の上で死にたいなら、自由な外出は難しくなる」
「う〜ん、そうか。やっぱり畳上がいい」
「そうだね」
そっけない会話でした。続くわけがない会話です。

父が徘徊の中で、車をジャックして言うのは「平山栄一といいます。92歳です。家に行ってください」あとは、何を言われてもお願いする、だそうです。(警察の人がいいってました)
だが、肝心の住所は言えない。同じことを繰り返す。
「頼むよ。家に着いたら、母さんが料金払うから」?タクシーだと思ってる。

父は戦後早くから鉄工所を経営し、移動は車ばかりで電車の乗り方はあまり知らない。特に切符の販売が自販機になってからは、さらによくわかっていない。かえってそれが幸いしたのだろうか。親切な方々はばかりではなかったと思うのだが、事実はわからない。親切な方々は、父を警察に連れて行ってくれた。
だから父はパトカーで帰ってくる。母は迎えた時に、ものすごく機嫌がすごく悪い。
警察に人が「お母さんが怒るから・・・」と言われたことがあった。
警察からの電話に「私は知りませんから、娘に言ってください」ガチャ。だそうだ。
夕方父が母が止めるのも聞かず出かけると、母から電話がかかってくる。
「今、お父さんだかけたからね。止めても効かないからね。私は知らないよ」ガチャン。
とう言われても、私は近くにいない。オロオロするばかりで、母に腹を立てる気力もなかった。
何度も仕事を途中で切り上げて、急い実科に行ったり、警察に迎えに行った。度重なると警察の方が気の毒に思って、警察に来たら私に電話をせず家まで送ってくれるようになった。
それでも、何回か一晩帰ってこないことがあった。いつもうまく見つかったのは、単に運が良かっただけだ。

これでは、両親二人で暮らすのは無理。私には仕事もあり、夫婦で入れる施設を探し始めたが、少ない。そんなある日、仕事場へ急ぎ改札を入りかけた時、父のデイケアのマネジャーから電話。
「今朝、お父様をお迎えに行ったら、お母様が倒れておられました。起き上がれないようです。介護ベットとポータブルトイレを手配しました。すぐ行っててあげてください」
「えっ、、、?! ありがとうございます」
と言ったものの・・・。仕事はキャンセル(😭)とにかく、行く。

母は、介護ベットに寝ていました。聞けば、二日前に病院の整体で背骨を押してもらったから腰が痛くなった。電話で聞いたら「少しくらい痛くても動いて。動かないと動けなくなるよ」と言われ、動いていたら今朝、起きられなくなった。
「私が動けないと言ったのに、お父さんはほったらかして行った」と怒っている。怒る元気はあっても、動けない。

私は運転がきない。救急車しかない。どの病院へ行く?背骨を折っているかもしれない。あまり痛がってないから圧迫骨折かも、肝臓も悪い、認知症もある。専門医はどこにいる?
私は携帯で専門医を探す。学会には専門医がいるはずだと考え、探す。学会から検索で、専門医は枚方の病院にいと知り、救急隊員の方には、その病院の専門医に連絡してあると言った。(本当は全く知らない)
病院に着くと、5月の連休の最中だったので当直医は受け入れを躊躇したが、連絡がついていると救急隊員の言葉で緊急入院。
翌日、指名された専門医は怪訝。
「どうして、僕を知っているの?」
「学会を調べ、先生が専門医だと知りました。お願いします」
呆れたような「そう」が返ってきた。
それでも、母の入院中は2人が主治医についてくださった。粘り勝ち?
母は、手術で折れた背骨を6本のボルトで固定。喉には動脈瘤も見つかった。

母が手術の日、父を一晩デイケアに預けたが、私と一緒に行った時はとても物わかりよく、施設の人の意言うことを聞いていたが、私が帰ってからずっと対応してくれた人の後をついて回るか、ドアというドアを開けて帰ろうとするかのどちらかだったらしい。迎えに行ったときに、もう2度と預かれませんと言われた。私は、アタフタした。

術後、両親は二人で暮らせない。施設は見つからない、どうする? 
母の手術以降、私は仕事ができない。二人の行き先探しが先決だった。探せるのは、母が入院中の間だけだった。父は認知症で一人で家に居られない。デイに行っている時間だけが、施設を探せる時間だが、しかし日本の施設にはほぼ夫婦部屋がない。
「高齢者はいろいろ問題があって、二人では置いておいて置けない。まして二人とも認知症では、どちらかが寄りかかって倒れたら困るから」だそうだ。
結局、高齢者マンションを2部屋借りた。
入所後、母は父とは仲良くできず、母は父を部屋に入れない。離婚したいと言い出す。父は母の部屋に入れず、拒否され、一晩中廊下の椅子に座っていたそうだ。
時に施設内を徘徊する。1週間足らずで、私が父の部屋をキレイに整理し喜んだその日、精神病院へ連れて行けと言われる。
「いや、単に妻に拒否され、心配している認知症の年寄りなだけだけど」は通用しない。


また病院探し。神戸の認知症専門病院へ行った。
その日、初めは外出を喜んでいた父は、病院に着いて、、悟ったように何も言わなくなった。入院書類に書けない字でサインした。罪悪感が襲う。
そこから始まった父の薬漬けの日々。自分で歩いて、話をしながら行った父は、3ヶ月で薬のせいで歩けなくなり、食べののも飲み込みにくくなった。昼前に行って、いるごろ少し朦朧とするのがさめかけたときに、昼食後また薬を飲まされると朦朧として話せなくなった。
先生に言っても
「こういう薬の調整は難しいの。初めにガッツときつい薬を使い、徐々に減らして調整するからそれまで黙っていて』 と言われた。
それでは、高齢の父の体は持つか? 疑問だけが残った。
私はまた、知りうる限りの医師に尋ねた。最後にこの先生が仕方がないと言うのなら、諦めるようと思った先生から、セカンドオピニオンをと進められたのが「明石こころのホスピタル」(兵庫県)です。

退院後元気になった父

二人の旅立ち

父は元気に99歳1ヶ月まで生きた。100歳の約束を、少し慌てん坊に走っていった。でも、旅立つ日にもおやつのプリンを2口、好きな朝鮮人参茶を3口飲んだから、旅路は空腹ではなかっただろう。

いつも思い出すのは
「わしは、あんたのことが心配だ」
「私は大丈夫だよ」
「そうか、大丈夫か」
と言った瞬間の見たこともない父の満面の笑み。同時に体の力がすっかり抜けて傾いて、それでも眩しく笑った。心配させていたら、もっと長生きしたのか?

それから、急斜面を崩れ落ちるよう父は逝った。心配させていたら、もっと長生きしたのか? この頃の父の1日は、3ヶ月、6ヶ月のように加速度だった。

「今日は死に衣装を持ってきたよ。旅立ちは寂しいから、ネクタイは明るめのものを新調したよ」と言ったら、次の日に旅立った。慌てん坊だ。

3年後に旅立った母も、最後にピンクの服が好きと言ったので持っていった。安物のオパールの指は指でくるくる回ったが、キレイだと喜んでいた。
「お気に入りの着物を持ってきたよ。死に衣裳は、やっぱり色無地でシャキッと行こうね」
と言った次のに日に旅立った。やっぱり二人は似ている。慌てん坊だ。
コロナの最中で、最後に駆け降りていく姿を見ることが叶わなかった。
孫がピンクのウサギの花籠を納めた。二人だけの寂しい見送りだった。

二人は昭和の「モボ・モガ」で、父の事業が順調な時はとてもおしゃれだった。私も幼い頃はグランドの子供服ばかりだった。旅立ちも、美学にはこだわったようだ。